こんにちは、あっきーです。
私の祖父が、戦場から逃げかえってから73年が経ちました。
後ろ指を指されながらも懸命に生きた祖父のおかげで、私はこの世に生まれてくることができました。
本日8月15日は、終戦記念日です。
私は2年前の8月6日、広島に原爆が落とされて71年経ったその日に、現地へ行ってみました。
そして今年の8月9日、長崎に原爆が落とされて73年経ったその日に、同じく現地へ行ってみました。
目的は「自分の目で見る為」です。
特別であるその日、その土地で、現地の様子を自分の目や耳で確認したかったからです。
「なぜそうするのか?」
私には原爆被害者の苦悩や痛みを分かち合う事ができません。
どれほど苦しかったか、どれほど痛かったのか、どれほど死にたくなかったのか。何も分かりません。
それは当然です。だって、体験していないのですから。
同時に私はこうも思っています。
「だからと言って、何も考えないのは違う」
気持ちが分からないのなんて、当たり前なんです。過去の事だし、他人なんですから、当人以外の誰にも分かりませんよね。
別に、気持ちを理解しようとしなくても良いとも思っています。
ただ、これだけは知っていて欲しいです。
理解しようとしないのは構いませんが、理解しようと考え、実際に行動している人がいる事は知っておいた方がいいと思うんです。
私が2年前の8月6日、広島へ行った時、一番印象深かった事があります。
それは外国の方々が非常に多かったことです。その数おおよそ、全体の3分の1以上でした。
私はこの事実に、大きな衝撃を受けました。
正直に言うと今まで、戦争だの平和だの、あまり興味なかったんですよ。
だから知ろうともしなかったし、実際何も知らなかったし、何も考えていませんでした。
では、私が未来の事を考えていない間、誰が平和について考えてくれていたか分かりますか?
それは、私以外の誰かでした。
”私以外の誰か”が、戦争の歴史を勉強し、海外からわざわざ旅行で広島に来てくれて、同じ過ちが繰り返されないために、真剣なまなざしで向き合っていたんです。
そっか、今までこういう人たちが、背負ってくれていたんだな。
私はそこで、深い感謝を覚えました。
ちょっと興味があるけど、何をしたらいいのか分からない人は、原爆が落とされたその日に、現地へ行ってみると良いですよ。
難しいことは考えず、ただ行って、自分の目で見てみると良いと思います。
そこであなたが何を思うかは分かりません。
「やっぱりどうでもいいや」と思う可能性もあります。
それでもいいんじゃないでしょうか。
何も知らないよりかは、よっぽどいいと私は考えています。
ちなみに、広島と長崎では雰囲気がかなり違いました。
どちらも自分の目で見て欲しいですが、強いて言えば広島は特に行って欲しいです。
広島には「負の世界遺産」に登録されている原爆ドームがあります。
負の世界遺産についてですが、「ナチスドイツの”アウシュヴィッツ”」もそうですよね。
そこで感じるものは、やはり尋常じゃないのです。
写真は、8月6日の広島で行われた、灯篭流しの様子です。
平和について
最後に、平和について少し考えた事があるので、お話したいと思います。
長崎に行ってクソ暑い中、考えたんですよね。
「”平和”って何なんだろう?」
というのも、ふと思ったことがあるんです。
それは式典の最中、原爆についての話を聞いている時のことでした。
「何で原爆って存在するんだろう?」
「ああ、自国の平和のためか」
ここで私は思いました。
「あれ・・??」
平和とは綺麗なものであるという認識でしたが、実はそうじゃないのでは?
真っ先に「兵士」という言葉が頭の中に浮かんできます。
戦争における”自国の兵士”は、何のために戦うのでしょうか?
もちろんそれは”自国の平和のため”でしょう。
では、”敵国の兵士”は何のために戦うのでしょう?
それは、”自国の平和のため”なんですよね。
つまり、お互いがお互いの平和のために戦っています。平和のために人を殺すんです。
自国の兵士は、”戦争の英雄”です。しかしながら、敵国にとっては”死神”になります。
矛盾しているようですが、これは歴然たる事実なんです。
「これはなんでだろう?」と考えました。
一つ分かったのは、誰かの平和は、他の誰かにとっては平和じゃないんだという事でした。
これはつまり、今も昔も、平和には”エゴ”が多く含まれているということでした。
それぞれの人々には、守りたいものがあって。
だからこそ人々には、それぞれの戦場がありました。
戦争とは、こういう矛盾を抱えた戦いなんだということです。
これをエゴと言わずなんと言いましょう?
エゴと言ったのは、感謝していないからでは決してありません。事実だからそう言ったのです。
だからどうという訳ではありませんが、それを理解することなしに、本当の平和は見えてこないんだということだけは分かります。
昔は、大事なものを守るために戦いました。エゴと分かっていながらも、自分たちの未来のために、敵の未来を奪い、奪われました。
私にはずっと考えている事があって、
「平和を求めるのなら、我々はもっと考えるべき」だと思うんです。
人間とは常に、現代という歴史の当事者なんです。
私は「暇つぶし」という言葉が嫌いです。自分たちが歴史の当事者である自覚が全くない人が使う言葉です。
もう一度言いましょう。
「平和を求めるのなら、我々はもっと考えるべきです」
いいですか、これは至ってシンプルなことなんです。
一人一人が「よりよくありたい」と考え、行動するだけなんです。
最後に、最大の根拠を申し上げましょう。
「歴史は人の手によってつくられています」
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
にほんブログ村
こーいちです。
こういう哲学的な話好きです。
広島の平和公園は、僕が子供のころ行った記憶があります、、、
子供の頃だったので、何も考えてなかったですが。
ただ、今でもその光景は覚えてます。
自分は資格を取るため、広島の福祉の学校に通ったことがあります。
広島の福祉の学校では、福祉の充実、企業の不条理を先生方が訴えてましたね。
戦争や争いって、自国の経済が潤ってないときに起こると、自分は思ってます。
ナチスドイツも経済が疲弊したドイツに現れました。
現在日本の5倍の5000兆円の借金があるアメリカでは、トランプ政権が誕生しました。
経済が疲弊すると、社会の負担になってる人達(障害者や貸金業など)が必ず差別されます。
今話題呼んでるパージという映画は考えさせられますね。
所詮、福祉は経済の果実、、、
でも、経済って、後進国の人達の命の犠牲の上に成り立ってます。
1カラットのダイヤのために、後進国の鉱山で沢山の人が争い死んでいます。
平和のためには経済が必要だ、でも経済の発展はどこかの国の犠牲の上に成り立ってる。
あっきーさんのおっしゃる通りで、平和な日本は、どっかの国の犠牲の上に成り立ってると僕は思います。
僕らにできることは、食べ物を粗末にしない、物を大事に使う、堅実なことに金を使う、くらいしか思いつきません。
食べ物一つのために、後進国では殺し合いが起こってるんです。
そして各人が少しずつでもいいので、社会に貢献できることをする事だと思います。
ムリをする必要はありません。
少しずつでいいんです。
個人個人に合ったやり方で、ムリせずにでいいんです。
例えば、お金持ってる人なら、個人向け国債を買うとかでいいんです
(アメリカの会社に投資した方が利率が高いと言う人がいますが、社会のためを思うなら個人向け国債買った方がいいですよね)
以上が僕の考えです。
こーいちさん、コメントありがとうございます。
広島の学校に通ってたんですね。勝手なイメージですが、広島の方々は精神が強い気がしています。
パージは1年前くらいに観ましたよw年に一度だけ・・ってやつですよね。
たしかに、経済的目線は必要不可欠ですよね。政治もそうだし、思想や宗教も、全てそうだと思います。
するとやはり、”自分に出来る事”になりますよね。そうなんです。それなんです。
私も似たような考えですよ。自分にできることと、自分にしか出来ない事をやるだけです。そのためにはやはり、たくさん考えます。
こういった記事って、反応しづらい人も多い中、熱心なコメントがもらえて嬉しいです。ありがとうございました。
やあやあ、あっきー殿、感慨深い記事を綴って頂き、感謝である。
自分ではどのように考えているのかふんわりしている部分を改めて活字で見るとまとまるものであるな。
我輩も広島に行った時は自然と涙が出てしまった。
今回、台風で夏休みを潰されてしまった我輩であったが、宿でポーランドから来たバックパッカーの2人組の女性と出会った。
どこに行くか気ままに旅をしていると言う話しであったが、1つだけ決めているのは広島に行く事だけは決めていると話していた。
今思えば、”その日”に合わせて向かっている最中、台風に見舞われたのであろう。
さむらいさん、お疲れ様です。
読者さんが考える手助けをするのも目的としているので、嬉しいコメントでした。
僕も長崎、広島、どちらとも涙が出ました。頭で考えるだけではなく、感じる部分がありますよね。
そんな出会いがあったんですね!そっか、ポーランドから広島に来てくれるんですね。本当にありがたい話です。
“考えた結果”の行動だったんでしょうね。
僕もまだまだこれから、いろんな景色を見ようと思います。